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独立記念館の拷問場面 / 敗戦による朝鮮半島からの引き揚げ


総督府による独立運動家の弾圧と拷問
韓国の独立記念館には、日本官憲による独立運動家に対する拷問の光景を再現した蝋人形が展示され、日本人は残虐な民族だとの強烈な印象を訪問者に植え付けている。独立運動を行なった朝鮮人に対して、酷い仕打ちを加えたことは事実だろう。しかし残酷な刑罰は、李朝の悪政として朝鮮を訪れた外国人達を恐れさせたものなのだ。総督府は残酷な刑罰を廃止し、監獄の改善を行なったのが歴史的事実なのだ。


李朝時代の監獄と残酷な刑罰
「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト (1989年 白帝社)
(著者のグレブストは1904年日露戦争の取材のため朝鮮に入った。)
朝鮮の監獄――山賊の頭目の死刑を最後まで見る

いよいよ待望の監獄見物のときがきた。私たちは立ち上がって庭に出た。窓に鉄格子があり錠のかかった小さな建物の前で足を止めた。錠をあけ、高い門柱をくぐって、天井の低い部屋にはいっていった。足元には古びてすっかり壊れてしまった汚らしいかますが散らばっており、壁には何本もの鎖や滑車、石塊などが掛かってあった。障子にはあちこち穴があいており、屋根にも隙間が多くて、吹きつける風に室内はまるで氷のように冷たかった。

ちょうどここに、囚人が14名収監されていた。彼らは皆壁のほうに身を寄せ合って座っている。あるものは先端や地面にまで達する長い首枷をはめられており、またあるものは片足または両足に足枷をかけられている。囚人たちはこれ以上ない不潔さで、伸び放題の髪が肩にまでかかっている。

彼らは何をするのにも億劫と言ったふうで、私たちが入ってきたときにもまったく関心を示さない。写真を撮ろうと私がカメラを向けたときですら、まばたきひとつしなかった。全員3年以上こにいるということだ。うち二人はなんと12年間も閉じ込められたままだという。片時も首枷をはずされたことがなく、囚人服も着古してぼろぼろになってはじめて新しいのに取り替えられるのである。口にするものというと、おかずなしのご飯のみで、野菜はそれこそ稀にしか出ないという。刑期中に獄死すると国費により城門の外の窪地に埋められるが、これについて親戚のものはまったく知らされることがない。そればかりか刑に服している間も、家族の面会だけでなく音信さえ厳しく禁じられている。

監獄を後にして私たちは再び庭に出てきた。低い二つの塀の間の小道を行くと、高い塀に囲まれたもう一つの狭い庭に出た。そこで私たちは珍奇な場面を見ることができた。

大きな厚い枷を肩にかけ、足に鎖をした20人あまり塀に沿って座っている。片隅には好奇心いっぱいの人々が立っており、もう一方には端正でない軍人たちが地面に小銃を投げ捨てたまま、大きくて平たい岩の上に座っている。庭の中央に膝の高さほどの長い台が置かれ、その上に男が一人縄を打たれたままうつ伏せになっている。下半身はふくら脛まで、上半身は肩まで着物をはいで、尻など胴の部分が完全に裸にされている。

しなやかに撓み揺れる竹の鞭(むち)を手にした男が数人、両手を縛られた囚人の両側に突っ立っている。彼らの頭上には半開きの傘を思わせる油紙製の雨天用帽子があるため、降り落ちる雪から繊細な笠を保護できるようになっている。

囚人は笞刑(ちけい)の宣告を受けたのであるが、刑の執行命令を待つ間に、執行人らは縛られた囚人の後頭部のすぐ上の虚空を鞭で切りながら嬉々としている。鞭が囚人の耳元を過ぎるときのその音はぞっとするものであろう。囚人は怯えた視線でこの残忍な遊戯を追い、すでに鞭が肉に食い込む痛みを感じているかのように全身をけいれんさせる。

刑の執行はすぐに始まった。看守長が命令を下すと、二人の執行人がそれぞれ配置についた、彼らは最後にもう一度鞭を空中で鳴らしてみてから笞刑を開始した。最初のひと打ちは鋭い音で、銅色の尻は真っ赤な痕跡を鮮やかに残した。哀れな囚人はびくっとして全身を縮めたので、縛ってある板が倒れんばかりであった。二度目の鞭で、彼は骨にしみるような悲鳴をあげた。その体が13回も繰り返しめった打ちにあうや、悲鳴をあげていた囚人も結局気を失ってしまった。

すると、刑の執行が一時中断となり、囚人の頭の上に冷水がぶっかけられる。囚人はひとしきり体をぶるっと震わせてけいれんを続けたが、意識を取り戻した。

彼は呻きながら許してくれと哀願した。しかし法の執行にはいささかの情の挟まれることも不可能で、彼にはまだ笞刑12回分が残っていた。こうして刑の執行が終わってみると、囚人の体はもはや人間のそれでなく、ただの血だらけの肉塊にすぎなかった。

縄がとかれると、意識不明状態の彼は台から転げ落ちて、傷だらけの背中を地面に当てたまま倒れている。ズボンが乱暴に引き上げられ、上半身の着物も同様に下げられた。頑強な両腕が彼の方をわしづかみにしたかと思うと、彼をずるずる引きずって庭を過ぎ、近くの監房に放り込んだ。そこではおそらく、同房の者たちが彼の悲惨な姿を目のあたりにして、自らの罪とその代償とを再びひき比べてみたことであろう。

こんどは小さな建物から別の囚人が引き出された。40歳台に見える男で顎のひげをぼうぼうに生やしており、体はというとすっかりや痩せさらばえている。悪臭が漂い、その目にはすでにあきらめの光がさしている。痩せ細った体を包むぼろ服は、彼がそれまでいた監獄がいかに汚く不潔なものであるかを物悲しく語って余りあった。

彼は朝鮮でもっともひどいといわれるヤカ(場所不明)という監獄からたった今護送されてきたのである。数年間、山賊の頭目としてヤカ地方を恐怖の渦に巻き込んだという。噂によると、最後の一年間だけでも彼の手によって奪われた命は20人を越えるという。官軍との血戦の末彼はついに捕らえられ、死刑宣告を受け、今日まさに私たちの目前でその一生を終えることになったのである。

準備は、あっという間にととのった。さきほどの苔刑のときに使われたあの血のついた縄が、こんどは彼の足をしっかり縛りつけることになった。それから両腕が両脇に縛られて少しも身動きできぬようになった。すると、執行人は彼の体を押して、彼はバランスを失ってその場に倒れた。いまや囚人は、死刑が執行されるまさにその場面に例れる身となった。

死刑執行人はさきほど笞刑を行った同一人物たちだ。彼らは太い棒を手にして現れた。
「棒で何をするんだろう?」 
私が尹に尋ねた。
「棒で笞刑を行うつもりなのだろうか。もしそうなら両足ともだめになるだろうに……。あの棒は普通の鞭とは違うでしょう?」
尹は私の言ったことを看守長に通訳した。看守長は小さな目を残忍そうにまばたせながら質問に答えてくれたが、その言葉は通訳を介さなくとも態度ですぐに理解できた。

すっかりおじけづいて顔色が白紙のようにあおざめていた尹はいまや真っ青になって、全身をぶるぶる震わせている。もう口が開かないといった態度で、しきりに唾を飲み込んでばかりいる。ついに、
「神様。これは酷すぎる。もうだめ、私は……」
そのようなことをとぎれとぎれに言うと、私がとらえるひまもなくさっと消え去った。その後死刑執行のむごい場面を見ながら、私は逃げていった尹のことをどれほど羨んだか知れない。

棒の使い道は、チュリの刑罰を与えることにあった。囚人の足の内側に棒をはさんで、執行人たちは、自分の体重をすべて棒の片側にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は、聞いていてもじつに凄惨なものだった。足の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声も囚人の凄絶な悲鳴も止まった。全身縛られた状態であるにかかわらず、上体を起こした死刑囚は、ほとんど座った姿勢になった。

顔には、死人のそれのようにまったく血の気がなく、唇は、固く閉じられてひとつの細い真っ青な線になっている。両の目は白目をむいており、額からは冷たい汗が雨のようにしたたり落ちた。首が力なく垂れた。体がだらりと地面にのびた。死刑執行人が棒をはずし、乱暴な手つきで実際に完全に手足が折れたかどうか調べている間も、囚人は、何も感じない死んだ羊のごとくじっと倒れたままだった。

死刑が執り行なわれる間、まわりでは見物人が目を見張りながら見ていた。彼らは、首を長く伸ばしながら、一瞬たりとも見逃すまいと息を詰めたまま悲劇の現場を見守っていた。

ただ、首伽をはめられた囚人たちだけは、まるで対岸の火事を見ているようであった。彼らは、一言も交わさず前方を凝視するばかりだ。自分たちも、いつかこのような自にあうかもしれない。たとえ刑場の露となるさだめを免れた者であっても、刑期をつとめる間に少なくとも一度はなんらかの拷問を経験している。そのときの苦痛が、他人の痛みを目のあたりにしながらも無関心でいられるようにしたのかもしれない。

気絶した囚人は、ややあって意識をとりもどした。カなく首を左右にゆすりながら呻き声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは、囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を絞めて殺し、その死体をどこへやら引きずっていった。

見物人が一人二人と散り、軍人は見物人を囲いの中へ追い込むように囚人たちを獄舎に入れた。看守長は満足げな表情で私を門のところまで見送ってくれた。おそらく彼は客を手厚くもてなすという東洋の美徳をじゅうぶんに発揮して、すべての参席者の期待に答えることができ、そのことがとても嬉しかったのだろう。じっさい、私の期待も必要以上に満たされていたのである。

所が私には疑問がひとつ湧いてきた。この国にキリスト教が布教されてもうだいぶ経ったし、西洋の文化大国がこの国の行政の各部門を助けてからも一日二日でないのに、なぜ今だのこのような野卑きまわりない拷問が続いているのか。エンバリーの言うように、獄内の出来事に関する生きた証拠が整っていないという、それだけの理由だろうか。それともほかの理由がまだあるというのか。

理由がなんであれ、こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうという点だ。異教徒の改宗に汲々とするあまり、そのまま見過ごしてはならない実状には盲目となってしまう私たちキリスト教徒の態度は、私たちに残された大きな課題のひとつである。
(グレブストが滞在したころの韓国社会は、日本統治時代に入る直前であった。日本は日露戦争に勝って、さまざまな分野で韓国に対する干渉を強めていた。)

残酷な拷問は李氏朝鮮の悪政の象徴として、当時朝鮮を訪れた外国人の旅行記・報告書などに数多く記されている。


以下の写真は上記文章と同時代ですが直接の関係はありません
「別冊一億人の昭和史 日本植民地史1朝鮮」 1978年 毎日新聞社より

李氏朝鮮時代の監獄 (動物園ではない)


首枷をした囚人たち


笞刑(ちけい)を受ける囚人(鞭を振り上げている場面)


チュリの刑を受ける囚人


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
F.A.マッケンジーは、有名なスコットランド系カナダ人の著述家で、日本の朝鮮統治についてもっとも批判的に書いたが、彼の『朝鮮の悲劇』(渡部学訳注、平凡社)では、(李氏)朝鮮の監獄について、「監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十名の囚人が絞首されてしまい、裁判は売買された」としている。アーソン・グレブストの『悲劇の朝鮮』には、「(李氏)朝鮮はきわめて盗賊の多い国家で、城塞(ソウル)の外で夜を過ごすことは大変危険だった。ソウルの外廓には人命を蝿の命ほどにも思わぬ山賊やならず者で溢れていた」と記されている。李朝末期の司法は、拷問で自白させ、賄賂が横行していた。判決は賄賂の多少によって決められた。ただでさえ牢屋が不十分で、近代的監獄がなかったので、犯人は笞刑(むちうちにするかあるいは処刑される者が多かった。というのは、犯人が収監されると、食事や収容施設に経費がかかるからだった。死刑執行所は、監獄内にはなかったので、さらし者にされる以外の者は、たいてい近くの山中の松の樹やくぬぎの樹に吊るして処刑された者が多かった。朝鮮総督府は、大正8年から文化政治を実施し、この非人道的な刑罰を廃止して、近代法治国家としての監獄をつくった

独立記念館の展示物で拷問を行なっているロウ人形は日本人ではなく、朝鮮人が朝鮮人を拷問している場面だったのだ。
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
これらの報告を読んでいると(管理人注: 同書の中で上記のグレブストの本の拷問場面を引用している)、思い出すのは韓国の天安市にある「民族独立記念館」のことです。この記念館でもっともショッキングなのは、日本の警官が朝鮮人を拷問している蝋人形の場面です。暗黒の中で光線に照らし出された拷問の模様は、5場面に及びます。私の連れていった学生達は、『見ておれない、まるでホラー・ビデオだ。日本人はこんな残虐なことをしていたのか』と言います。修学旅行にやってきた韓国の小・中学生たちは、その前で日本人への憎しみをかきたてます。私は眺めながら、もっと深刻なことを考えていました。こういう拷問のやり方の中に、ここに紹介した外国人の報告の描写とダブる所があると気づいたのです。

当時日本は、朝鮮人を憲兵や警察の補助員として使っていました。直接の取調べは、言葉の判る朝鮮人が当っていたのです。だから拷問を行なっているのは朝鮮人であるところに、悲劇の深刻性があったのです。(中略)日本が韓国の警察制度の近代化に乗り出したのは、1910年になってからでした。警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しました。一般に韓国民衆を弾圧するためと即断されがちですが無差別に行われる韓国官憲の横暴や拷問を防ぎ、「義兵」などと称して行なわれていた山賊まがいのことや、親日派韓国人へのテロ、襲撃を防ぐためには、断固たる措置が必要であったのです。

しかし日本人は語学ができず、民情にも疎いので憲兵・警察の補助要員として韓国人を募集しました。当時、日本人憲兵1007人、韓国人憲兵補助員1012人、日本人巡査2265人、韓国人巡査3428人で、いずれも韓国人の方が多かったのです。ところがこの補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らすものが多く、悪弊を直すのに困りました。今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3年)には、『朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる』と述べています。

Link 日韓関係の近現代史 拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風

Link 朝鮮日報のHP 日本の高校生が「西大門刑務所歴史館」を見学

日本の高校生が見学してショックを受けたのは、総督府時代の近代化した刑務所である。彼らが李朝時代のおぞましい監獄風景や、戦後韓国で行なわれた残酷な拷問の説明を受けていたら、別の感想を持ったに違いない。

戦後韓国の拷問は日本統治時代よりも酷いものだった。
「醜い韓国人 <歴史検証編>」 朴泰赫 加瀬英明 1995年 光文社
加瀬
(第二次大戦後の)南朝鮮過渡政府のときから、警察が恐怖政治を行なっていた。混乱期だったということから、理解することもできますが、日本統治時代よりも、ひどいものでした。ヘンダーソンは先の著書(『韓国渦巻きの政治』)のなかで、1947年なかばに南朝鮮で7000人の政治犯を含む、2万2000人が投獄されていたが、「日本時代の2倍近くに当たる」といい、また、1950年の韓国財務部の発表を引用して、全国21ヵ所にある刑務所に、5万8000人が収監されているが、「国会の調査によれば、このうち50〜80%が国家保安法違反によって捕らえれた者である」と、述べています。
そして、「拷問――腎臓を殴打する、水漬け、電気ショック(「電話」と呼ばれる)、親指を縛って、身体を天井から吊るす(「飛行機」)、唐辛子を無理やりに大量に食べさせる」ことが、ひろく行なわれていた、と書いている。また、警察の腐敗が目にあまり、1948年には警察官の賄賂収入が、給料の「50倍から80倍に当たった」と、述べています。


私は拷問を受けた人々を取材したことがありますが,唐辛子を無理やりに食べさせるなんてことはできませんよ。これは、まず、人の顔を濡れた布で覆ってから、唐辛子を溶いた真っ赤な湯を、ヤカンから目や、鼻腔に、流し込むんです。コチュゴモンという拷問です。「電話」は、昔の手動式電話がありますね。陰陽の電流を流した線を、被疑者の指につないで、電話器の取っ手をまわすんですよ。これも、効きますよ。





敗戦による北鮮引揚げ
共産主義国家の蛮行は左翼マスコミに無視されてきた。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
惨憺たる北鮮引揚げ
日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31〜2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27〜8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。
…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて感興市内に殺到したるも…
われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐侍という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。…
駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時感興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊と栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。
戦時中の朝鮮人強制連行の発掘作業は、人権問題として反日左翼・市民団体によって熱心に進められており、新聞・テレビなどで目にすることも多いが、日本人の悲劇は彼らの関心の対象外のようだ。






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