コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。 |
|
■このページ内の項目へジャンプします |
日本から見た韓国併合 2 閔妃暗殺 / 武断政治 三・一運動の弾圧 / 独立運動家の弾圧と拷問 |
『日本人は正しい歴史認識をしなければならない』と韓国人や日本の左翼が言います。しかしそれは彼らにとって都合のよい歴史観を押し付けることでしかありません。例えば伊藤博文を暗殺した安重根という人物は、韓国の英雄であり日本の歴史教科書でも明治維新の元勲よりも大きく扱われています。しかし北朝鮮での評価では、安重根は愚か者の代表になっているそうです。『力もないのに伊藤博文の暗殺を計画し、暗殺そのものには偶然成功したものの後が続かず、自身は逮捕されて処刑されるのみならず、日朝(韓)併合の直接のきっかけを作ってしまい、歴史に大きな汚点を残した張本人である』(リンク先参照)と言っているのですから、同民族であっても立場が違えば全く異なる評価をしているわけです。このように事実は一つでも解釈は多様なのですから、彼らの押し付ける『正しい歴史認識』というのも疑ってみる必要があります。そこでこのページでは、それを検証するために韓国人の主張と相反する資料を集めてみました。 |
このページの見方
|
. | .西洋列強の接近から韓国併合までの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本の国書受け取り拒否の思想的背景
朝鮮が儒教朱子学に基づく華夷秩序を受け入れたのは自らの安全保障のためでもあった。国王の任命権(冊封)が中国皇帝にあることは、国家簒奪をたくらむ反乱者に対する強力な抑止力になり、李氏朝鮮は500年も続いた。そのため朱子学の優等生である朝鮮の支配階級は、中国に対し忠実無比となり卑屈なまでに隷属してきた。その鬱屈した心理のバランスを保つために、周辺の諸民族を蔑視し自分より一段低いものと侮蔑した。朝鮮人は日本差別主義者だったのだ。それは科学的には何の根拠もない手前勝手な集団妄想であり、儒教朱子学の弊害として、朝鮮の近代化を阻んだ最大の原因ともなった。
李氏朝鮮の時代は悪政のため民衆の反乱が続発した。反乱者の要求したものは一貫して、奴婢の開放と身分制度の改善、横暴な両班の処罰、税制・土地制度の改善であったが、李朝の対策は小手先なもので、根本的な改革を行うことはなかった。
断髪令は李氏朝鮮が法制化し民衆に強行したものだが、どういうわけか日本批判の材料となっている。彼の国では自己批判をすることはなく、何事にも悪いのは日本なのである。
朝鮮半島南北分断は日本のせいであると批判されるが、アメリカとソ連の交渉で決定したのであり、ソ連にとって38度線は日露戦争時代の権益にまで遡るものだった。
歴史教科書などで抗日ゲリラの義兵闘争ばかりが強調されているが、日本の敗色濃厚と見られていた日露戦争で、自国の復興を賭けて対日協力した一進会の活動は、それに劣らず活発なものだった。つまり国論は二分していたのである。
高宗を知れば李氏朝鮮が滅びくして滅んだことがおぼろげながら理解できる。高宗の側近であった洪鐘宇の談 『こんな国王を戴きながら、韓国が滅びないのは僥倖(幸運)だ』 『韓国も今や末路である。亡びざる国はなく、四千年の旧邦も今は断末魔に近づいている』(青柳綱太郎著「李朝史大全」より)
伊藤博文は韓国併合には消極的であって韓国の自立を望んでいた。
韓国併合条約に純宗皇帝の署名がなく、署名した李完用総理大臣への全権委任状もないことから無効な条約である、という主張があるが、純宗に署名する能力があったかどうか疑わしい。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. |
▼ 韓国併合 |
〔国権の侵奪〕 高宗皇帝を強制的に退位させた日帝は、軍隊をも解散させた後、大韓帝国を植民地にするため侵奪を続けた。すなわち、大韓帝国の司法権を奪った後、警察権さえ統監府が握り、行政、司法、治安などの支配権を強化した。日帝は、李完用を中心とする親日内閣に対し、大韓帝国を日帝に合併させる条約を強要し、ついに韓民族の国権を強奪した(1910年)。この結果、長い間、独自の文化を作りながら発展してさた韓民族は、日帝の奴隷的な状態に成り下がることになった。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より) |
李氏朝鮮は世界の大勢を見誤り、鎖国を守り清の属国であり続ければ国家の存続を保てると考えていた。 |
「中国・韓国の歴史歪曲」 黄文雄 1997年 光文社 |
朝鮮半島の「植民地化」は、避けられない歴史の運命 19世紀中葉の東アジアでは、各国とも列強諸国の植民地化の危機にさらされていた。世界超大国の清国までがアヘン戦争で、イギリスに負けて衝撃を受けた。ところが、日本人は、アジアの諸民族よりも早く目覚め、開国し、明治維新に踏み切った。もっとも、それで一躍、帝国主義国家になれたわけではなかった。日清戦争当時でも、日露戦争当時でも、「必勝」と思っていた人はほとんどいなかった。たいてい日本の「必敗」とみるのが、むしろ当時としての国際的な一般的見方や予想であった。当時、東アジア諸民族の一般的な考え方は、列強諸国の東アジア進出への危機感から、日本、朝鮮、中国3国が一緒になって、列強諸国に対応すぺきだというものであったが、甲申政変によって、朝鮮の開化派が一掃された後、福沢諭吉までも、とうとう朝鮮との連携をあきらめて、「脱亜論」を発表し、「亜細亜東方の悪友どもとの謝絶」を公言した。 19世紀という時代は、列強諸国の地球分割がほぼ完了した時代である。地球上の非西洋的文化圏で、列強諸国の植民地に転落しなかった国は、ほんのわずかしかなかった。アヘン戦争以後の清国でさえ、「分割」や「植民地化」の危機にさらされ、四苦八苦するぐらいだから、朝鮮半島は、植民地に転落することが、避けられない状況にあった。歴史はそれを実証している。マルクス主義的史観からいえば、それは「一つの歴史的必然」ではないだろうか。19世紀後半から朝鮮半島は、西風東漸の影響を排除することができず、列強蚕食の場となっていた。英米仏の勢力以外にも、三つの勢力が出現した。それは旧宗主国、清の支配の強化、それに南下するロシア、さらに日本である。まず、日清戦争で清が敗退し、日露戦争では、ロシアが敗退し、日本が残ったのだ。東アジアの不安定要因は、朝鮮半島にあると列強諸国はみていた。日露戦争後の列強諸国のバワー・オブ・バランスからみれば、アジアの「永久安定」のためには、「朝鮮半島の日本保護国化」がどうしても必要であった。だから、日露戦争後に締結されたポーツマス条約(1905年)では、ロシアもそれを承認し、アメリカのルーズベルト大統領も「自立できない国家はそれしかない」とそれを認め、東洋平和のために「将来の禍根を根絶するためには、韓国の保護化が絶対必要」と小村寿太郎外相に述ぺていた。かくて、桂・タフト米陸軍長官との協定(1905年)でも、イギリス政府は朝鮮の日本の保護国化を承認したのだった。 |
当時は帝国主義時代でいわば地球規模の戦国時代であり、新時代に取り残された弱小国の存続は困難であった。 |
朝鮮は自国を防衛する能力のない国であった。 |
「NOといえる教科書」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社 |
当時の(李氏)朝鮮の軍備というのは誠にお粗末で、人口1300万に対して正規軍はわずか二千数百。警察に毛の生えた程度のものですね。どうしてそうなったのかはわかりませんが、高麗朝の時期ですら、人口はその半数以下で、中央軍を4万5000持っていたわけです。ですから、当時の朝鮮が自国を防衛する能力のない国であるというのは、世界周知の事実でした。とにかく早急に近代的な軍隊をつくらなければいけないということで、旧式の軍はおいたまま、新式の洋式軍隊を設けます。これは別技軍といわれますが、創設と兵士の訓練には、日本が指導にあたりました。 |
国防どころか壬午軍乱、甲申政変、東学党の乱(甲午農民戦争)いずれも朝鮮自身で鎮圧できず、宗主国清に援軍を頼んだものである。 |
朝鮮亡国の原因は朝鮮人自身にあった。 |
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画 | ||||
中央・地方政治の腐敗と停滞 李氏朝鮮から大韓帝国に至った韓国ですが、政治の宿弊がたまってどうにもならなくなっていました。いま指摘すれば韓国から反発を買いますが、併合の必然性というべきものがあったことは、歴史の事実として無視することはできないのです。李朝では、19世紀初頭から、幼い王が四代も続いたために政治の実権は王の外戚の手に移りました。これを勢道政治と呼んでいます。そのため王の外戚が要職を独占し、賄賂の横行と売官売職などの不正行為がまかり通り、政治機構は極度に紊乱しました。韓国の歴史教科書も、次のように書いております。
|
||||
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 | ||||
清朝末期の戊戌維新の主役で、近代中国政治、文学、思想会の重鎮でもある梁啓超は、朝鮮亡国の原因について、李朝宮廷、政治、社会の三点にあると説き、朝鮮を滅ぼしたのは朝鮮人自身で、日本が原因ではないとし、朝鮮は滅ぼされたのではなく、自ら滅びたのだと次のように説いた。立憲君主論者の梁啓超の見方によれば、『立憲君主制が確立されていない専制国家の運命は、すべて宮廷とつながっている。全国民はことごとく君主一族から害毒をこうむる。宮廷から見ると、君主専制国家、朝鮮の滅亡は、大院君と高宗二人の責任にある。大院君は酷薄(むごく薄情)、残虐、驕慢(えらぶる)にして猜疑心が強い。権謀術数のみ知って大礼を知らない。彼こそ亡国最大の元凶である。高宗は懦弱にしてふるわず、優柔不断、讒言(人をおとし入れるため、事実を曲げる)を好み、事理には暗い。側近は阿諛迎合(おべっかを使い、とり入る)の徒が多く、小さな恩恵を施し、小手先の策を好んでそれもまたすぐにぱれてしまう。人に頼りすぎて自主が確立されない。虚飾を好み、実を努めない。政治を操る閔妃と高宗はじつに、悪女と愚君である。このような君主が国を滅ぼさない例は、歴史上ほとんどなかった』という 梁啓超によれぱ、李朝社会とは、貴族と寒門(貧しい家)の階級が歴然と存在し、両斑(特権階級)は一切の権利を壟断(ひとりじめ)する。国中で独立人格と自由意志を持つ者は貴族のみで、しかしながら、彼らはすべて社会の諸悪の根源である。彼らは仕官のみを志し、繁文縟礼(規則、礼法が細々してわずらわしい)。民衆に対しては禽獣畜生のごとく扱い、搾取略奪した財産を国庫に入れるのは三分の一にも満たない。徒党を組み、私腹を肥やして殺し合う。とはいっても彼らは政治とは何たるものかを知らず、世界の大勢も知らない事大主義(勢力の強大なほうになびく)で親日・親露・親中ところころ変わる。帰国した留学生が千人近くいても、ほとんど猟官(官職にありつこうとして運動すること)に忙殺される以外には、社会のことをほとんど顧みない。学校一つもつくらず、本一冊さえ書かない。翻訳一つでさえものにはならないありさまだ――だという。 梁啓超によれば、朝鮮人は空論を好み、激情にして怒りっぽく、ややもすれば命知らずですぐ立ち上がる。それなのに瞬く間に死んだ蛇のように、いくらつっついても動かない姿に変わる。朝鮮人は将来のことはほとんど考えない。庶民は腹一杯になれば、すぐ木陰で、終日清談に耽り、明日のことはすっかり忘れてしまう。高官も今日の権勢さえあれぱ、明日は亡国となってもほとんど気にしない。日本が統監府を設けた後、朝鮮人の政権争奪は、以前にも増して激しくなり、合併後には、隣国の人々さえ慟哭せざるをえないのに、朝鮮の顕官(高官)たちは、いっそう新朝廷に阿諛迎合して、日々猟官運動に忙殺されるありさまだ。安重根のような人は、億万人中に一人や二人も得られない。朝鮮社会は厚顔無恥、陰険悪辣な徒が多く、節操自愛するものが少ないので、亡国は朝鮮人社会がそうさせたのだろう――とも述べている。それ以外にも、梁啓超は、今までの朝鮮の軍事、政治、財政、貨幣改革はすべて役に立たず、外交に至っても、ただ権謀術数を弄するに終始しているとも指摘している。 |
韓国併合を非難する人は、李朝時代が豊かで平和な楽園であったとでも思っているのであろうか? 李朝末期の朝鮮は政治が乱れに乱れていた。役人や両班は自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を搾取することだけしか考えていなかった。そのため社会道徳が乱れて、精神も、文化も、経済も疲弊していた。 |
「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社 | ||
両班に収奪される民衆の怨嗟の声 李氏朝鮮の、民衆に対する収奪がいかに苛酷なものであったか、文学にも表われている。李氏朝鮮末期の代表的な知識人だった李人稙(1862-1916年)が、『血の涙』という詩をつくっている。 両班たちが国を潰した。 賤民は両班に鞭打たれて、殺される。 殺されても、殴られても、不平をいえない。 少しでも値打ちがある物を持っていれば、両班が奪ってゆく。 妻が美しくて両班に奪われても、文句をいうのは禁物だ。 両班の前では、まったく無力な賎民は、自分の財産、妻だけではなく、 生命すらその気ままに委ねられている。 口ひとつ間違えればぶっ叩かれるか、遠い島へ流される。 両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない」 (『韓国現代史』第8巻、新丘文化社、ソウル) (中略) 丁若[金+庸]が、流刑地の全羅南道の康律で、地方役人の事蹟を収録した『牧民心書』は、今日も評価が高い。地方の役人の百姓に対する苛斂誅求の甚だしさを、ありのままに記録している。一例を挙げると、兵役税の名目で、兵員1人を徴集する時に、5、6人に令状を出して、余分の人員から徹底的に金を徴収して、役人が着服した。たとえば一家に祖父と父と孫が同居していて、祖父が兵役に耐えられない老齢でも、孫が5、6歳で幼かったとしても、きっちり人数分の兵役税が徴取された。なかには、子どもが多く、税金を納められない貧しい家の主人が鋏で自らの性器を切断し、それを妻が陳情目的で役所に届けたが、門前払いされたなどという悲しい話もある。518年間続いた李氏朝鮮も、北朝鮮のこれまでの56年間の歴史も、中国の悠久の歴史も、残酷きわまる流血の歴史である。百姓を奴隷の境遇に転落させ、文字どおり限りない収奪と、大量の餓死が繰り返された。 |
||
「韓国人、大反省」 1993年 金容雲 徳間書店 | ||
そのころの地方官吏の横暴ぶりはとても口では表現できぬくらいだった。とりわけ軍の乱れと腐敗は酷かった。民衆を軍にかりだす過程で、金のあるものは穀物や木綿を差し出して徴兵を免れたが、これが次第に制度化するにつれ、村の頭や役人がありとあらゆるサギを働くようになったのである。子を孕むと、まだ生まれないうちから子を軍籍に入れ、子犬や牛にまで名前をつけて軍籍簿に書きこんで、税を取り立てるありさまだった。 丁若[金+庸]の代表作、『牧民心書』には、当時の現実と軍政の乱れを詠んだ詩が載っている。
上の詩を書いた動機が同書に、次のように詳しく説明されている。これは1803年秋、私が康津にいる時に作ったものである。芦原に住む男に子ができて三日後、もうその赤ん坊は軍の名簿に編入され、その子が徴兵に応じられない代償として牛をとられた。男は刀で自分の男根を切り取って『わしはこいつのおかげで酷い目に会う』と嘆いた。妻が夫の男根をもって官庁に抗議をしに行くが、まだ血がたらたらと流れている。泣いて訴える彼女に、門番は非情に立ちふさがったという。私はその話を聞いて、この詩を作った。 官吏は腐敗し、民衆は無力だった。兵営には無能な将兵しかおらず、武器はサビついていた。匠人(職人)も、意欲ある商人も見られなかった。皆が惰眠をむさぼり、ただ日々に流されていた。先覚者の丁若(金+庸)はこのような事実を直視した。彼は朝から晩まで筆をとり、現実の矛盾を告発しつづけた。しかしその声は、ぐっすりと眠っている人たちを目覚めさせる警鐘となるほど大きくはなかった。 (中略) 日本は韓日併合の20年前に、すでに鋭い目で李朝の実状を観察していた。日本のあるスパイは、朝鮮政府が実際に消費する金は日本の金で300万円程度であるが、国民の出す税金の総額はその10倍以上であることを調べだした。国庫へ入る金以外、つまり10分の9の金は言うまでもなく官吏が横取りしていたのである。この日本のスパイは、朝鮮の悪徳官吏が横領した金をそのまま国庫へ納めれば、李朝の人心はきっと日本へ向かうとにらんだ。言わば、李朝の腐敗が日本の侵略を呼んだわけだ。鎖国により外国の目を避けることばかり考えて、内部の自立と自覚をないがしろにしたのだ。 |
||
「30年前の朝鮮」 バード・ビショップ 1925年 (「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より) | ||
朝鮮の官吏の腐敗は目にあまった。私は遠慮なく朝鮮官吏を批評する。彼らは民の膏血を搾り取る吸血鬼だ。彼らは任地に赴かずソウルにあって宴楽をほしいままにし、自己の管轄内の住民を保護し善導することがまったくなく、虐待し誅求するのだ。朝鮮の事物はことごとく低級である、貧弱である、劣等である。特権階級の猖獗、官吏階級の誅求、正義公道の全滅、財産の不安、取得の危険、政府の頑迷等などことごとくこれ朝鮮自滅の禍根である。さらに国王は後宮に耽溺して億兆の赤字を顧みない。 |
李朝末期は平和な国でもなければ楽園でもなかった。民衆は冷酷非情な支配者により絶望的で悲惨な生活をしいられ社会が停滞しきっていた。 |
日本は乱れきっていた李朝末期の韓国社会を正した。これは日本による改革・日韓併合を支持する声である。 |
「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社) |
『死刑の執行を見た。身動きのできぬ囚人の足の内側に棒を挟んで、執行人たちは自分の体重の全てを棒の片端にかけた。囚人が続けざまに吐き出す叫び声は聞いていて実に凄絶なものだった。脚の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声さえももはやないかのように、囚人の凄絶な悲鳴も止まった。執行人らは囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから最後に絹紐を使って首を絞めて殺した。――理由が何であれ、こんな状況がまだこの地球上の片隅に残っていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が(李氏)朝鮮を手中にすれば、真っ先にこのような拷問を廃するだろうという点だ。』 |
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫) |
『宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上ほしいままにしてきた。この点について日本は新しい理論を導入し、庶民にも権利はあり、各階級はそれを尊ばなければならないということを一般大衆に理解させた。朝鮮の農民には、日本と西洋の指導手段を通して、食いものにされるばかりが自分たちの運命ではない、自分たちも市民としての権利を持ち、法的見地から見た平等に値し、収入を守られるべき存在なのだということが徐々にわかりはじめてきたのである。(中略)朝鮮における日本の政策はいまでも同一の卓越した政治家たちによって具体化されており、その政治家たちとは、日本が国際外交の舞台に躍りでたその日以来、文明開化の道をふさぐ複雑多岐な障害をみごとに切りぬけて国を導き、世界が賞賛を禁じえない手腕を示した人物たちであることも忘れてはならない(明治維新で日本を近代化させた実績のある官僚たち)』 |
「大東亜戦争への道」 中村粲 平成二年 展転社 |
日露戦争中に締結された第一次日韓協約後、韓国の外交と財政は事実上、日本の指導を受けることになったのだが、この保護化を第三者はどう見たか。米国の著名な外交史家タイラー・デンネットは、かう書いている。『韓国人は、その最近の歴史も駐米外交官たちも、ルーズヴェルト大統領の尊敬や称賛の念をひき起こすことができなかった。……大統領にとって、長い間海上に遺棄され、航海に脅威を与へる船にも似た韓国が、今や綱をつけて港に引き入られ、しっかりと固定されなければならないことは明らかだつたやうに見える』保護化は東亜政局の安定上、やむを得ぬ結論と見てゐるのだ。ルーズヴェルト大統領は日本の韓国保護化に何の干渉もしなかった。それは『韓国は自分を守るために一撃すら与へることができなかったから』(ヘイ国務長官宛て短信)なのである。英外相ランズダウンもまた『韓国は日本に近きことと、一人で立ちゆく能力なきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ』と書いた。(中略)日露戦争中、英国は日本の韓国保護化を承認した。日露戦争勝利後に開かれたポーツマス会議を終へた小村寿太郎にルーズヴェルトは云った。『将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ、それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし』と。ランズダウンの如き『英国は日本の対韓国措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する』とまで云ひ切った。 |
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社 |
◇朝鮮の外交顧問であったアメリカ人 ドーハム・スティーブンス 『朝鮮の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財宝を略奪している。そのうえ、人民はあまりにも愚昧である。これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされるであろう。伊藤(博文)統監の施策は、朝鮮人にとって有益で、人々は反対していない。』 |
「日本と韓国」 八木信雄 昭和53年 (「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画より) |
◇アメリカ人宣教師 ラッド博士 『韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤(博文)総監によって、韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、未開時代から文明時代にに進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において三年間に二倍の進歩を遂げた』 ◇アメリカ人宣教師 ハリス博士 『私のみるところをもってすれば、伊藤公の統治は最大なる賞賛に値するものであり大変満足しております。韓国民は今ようやく彼をもって自分達の友人であると知ってこれを事実の上に現し始めました。過去三年間の間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして総監政治の最も熱心な支持者たることを告白せしめます。私は伊藤公の必ず成功すべきことを信じて疑わない者であり、また、全ての宣教師及びその他の韓国における文明開発の義務を知る者は等しく伊藤公の統治を支持しなければならないと思います』 |
「海外の新聞にみる日韓併合」 杵淵信雄 1995年 彩流社 |
◇ニューヨーク・タイムズ 1904年9月28日号より 『日本人は朝鮮との間に追加条約(第一次日韓協約)をどうやら取り決めた。条約によって望ましい改革への道が開ける。それは朝鮮の利益にとって望ましいばかりでなく、疑い無く日本の為にも望ましい改革である。朝鮮は日本人の財政顧問と日本の信任を受けている外交顧問の採用を誓約している。(中略)日本人は朝鮮が進歩の名に価する進歩を達成するためには、外にも数え切れない改革が肝要なことをよく知っている。しかしまた、この時代の朝鮮が自発的にこれらの改革を採用する見込みのない事も、よく知っている』 ◇ニューヨーク・タイムズ 1905年4月29日号より 『朝鮮でいま目にする変貌の光景は素晴らしい。すでに実施された統治の諸改革は見事であり、国民には混じりけなしの恩恵となっているが、皇帝にとってや、宦官、占い師、易者、外国人寄生虫からなる宮廷には狼狽の種になっている』 ◇上海の英字紙ノース・チャイナ・ヘラルド 1905年11月24日号より 『朝鮮を知る全ての人は朝鮮人には多くの美質があると認めるのであるが、朝鮮人が大好きな者でも、朝鮮は20世紀には独立国としてやっていけないと認めざるを得ない』 ◇ロシア・ジュルナル・ド・サン・ペテルスブール 1910年8月26日号より 『ニュースはいまだ公式に確認されていないが、日本の朝鮮併合は既成事実となっているように思われる。……文明とは平和主義の道における前進であり、この観点に立てば、朝鮮の併合は極東の繁栄と発展の新たな起因となるだろう』 ◇上海・申報 1910年9月1日号より 『韓国は滅んだ。しかるに韓国の皇帝はニコニコとし、韓国の家臣は歓び、太上皇(高宗)もまた恨みを残さない。均しく外国の寵遇を得意としているようだ。ただうつうつとして不平を抱いているのは韓国の学生だけだ』 |
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画 |
◇ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙より 『韓国は多年、その自主独立の政治が出来なくて、過去数世紀の間、支那の宗主権を承認していた。日本がこれを、その境遇から救った後は、日・ロ間の係争地であった。ついで、日本は、またまた、これをロシヤの圧迫から脱けさせるや、財政に、行政に、日本の忠言指導を受けることになり、外交のことは、挙げてこれを、日本にまかせた。それ以来、韓国は、少なくとも露・仏・英諸国が、その付属国民に対すると同様の恩恵に浴するに至った。けれども、近来、韓国は、いたずらに名を無実の独立国に借りて、陰謀、姦計を弄し、隣国の激怒を招き、威喝、否戦火を蒙った。これが、実に、日清、日露の二大戦役を実現したゆえんである。ここでこそ韓国の地位に、根本的な改革を加え、それによって禍根を除去するより外はない。……故に吾人は、日本保護の下における韓国に対し、喜んで、そのいわゆる独立に永遠の離別を告ぐるものである』 ◇洪鐘宇 青柳綱太郎著「李朝史大全」より 洪鐘宇はフランス帰りの開化派として国王の命令で金玉均に近づきました。そして金玉均をうまく上海に連れ出して暗殺に成功し、帰国するや平理院裁判長に栄進しました。また、独立協会(開化派)の勢いが盛んになったとき、洪は皇国協会の会長としてテロ団を組織して弾圧の急先鋒となりました。このように反日派として政界の汚れ役を任じた彼でした。やがてその彼が国王の過失を非難したために、遠ざけられてしまいました。彼はかねてから「京城新聞」の主幹であった日本人の青柳綱太郎と親しくしていました。彼は青柳に対して、次のような本音を漏らすようになりました。 『こんな国王を戴きながら、韓国が滅びないのは僥倖(幸運)だ』 『韓国も今や末路である。亡びざる国はなく、四千年の旧邦も今は断末魔に近づいている。一進会員ならざるも庶民はこのうえ塗炭の苦しみにまみれたくなかろう。むしろ、日本は速やかに併合して日本天皇陛下の政によりて1200万国民が蘇生する事を得れば、国は亡んでも亡び甲斐ありと言わねばならない』 一貫して韓国王の意図に従ってきた人物の発言だけに痛烈です。 ◇李成玉 「李完用候の心事と日韓和合」より 李成玉は、朝鮮時代、全権公使としてアメリカに行きました。彼が各民族に接してみると、朝鮮人は、米国人に軽蔑されているアメリカ・インディアンよりも劣り、その他メキシコ、インド、ポーランドなどの民族よりも劣っていることを知り、衝撃を受けます。そして次のように述べています。 『現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面を保つことはできない。亡国は必至である。亡国を救う道は併合しかない。そして併合相手は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本人は違う。日本人は日本流の道徳を振り回してうるさく小言を言うのは気にいらないが、これは朝鮮人を同類視しているからである。そして、日本は朝鮮人を導き、世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外にわが朝鮮民族が豚の境遇から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。日韓併合が問題 になるのは、変な話だ。我が輩の併合観は、欧米人の朝鮮民族観を基に考察したのだ』 ◇朴栄普iぼくえいきつ) 「五十年の回顧」より 朴栄浮ヘ、併合前の明治35年に日本の陸軍士官学校に入校し、帝国陸軍少佐を経て日本統治時代に道知事にまでなった人です。彼はその著「五十年の回顧」(昭和4年)の中で、日韓併合による韓国滅亡を次のように教訓化しています。 『公平無私なる観察を下すときは、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤(博文)公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究竟するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。詮ずるところ、その責任は二千万同胞にあるのである。思うに韓国自体が独立の要素を欠き、独力独行することが出来なかったためであって、古今問わず韓国国民全体が無気無力為す事なかりしの致すところであって、まことに自ら招ける禍であると云わねばならぬ。日露戦後、日本は前例に鑑み(日清戦争後の処理を指す)韓国の保護啓発に努力したるも韓国の上下は少しも日本の誠意を理解せず陰謀を策し、詭謀を企て陰に陽に敵対行動を取ったので日本はついに止むを得ず最後の手段として日韓併合を断行するに至った。・・・今日あるは自業自得であると云わねばならぬ』 ◇閔元植(びんげんしょく) 「朝鮮騒擾善後策−鮮民の求むる所は斯くの如し」より 閔妃皇后の血統をひく閔元植は、12歳から日本で学び21歳の時朝鮮に帰ると統監府の官吏となった。33歳で高陽の郡守をしていた時三・一事件に遭遇した。 『このたび3・1独立運動の近因は、米国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義を、欧州戦線と何ら関係のない朝鮮にも適用されるものとする誤解から起こった。もしくは誤解を装うて、ひょっとしたらうまくゆくかもしれないと狙った在外朝鮮人の扇動に由来した。もっと言えば初めから実現できないと知りつつ妄動を企てた感がある。常識的に見れば、狂気の沙汰と言えよう。しかし朝鮮人が、日本の統治政策に深い不満を抱いていることは確かである。この対策を考えねばならない』 『日本政府は併合以来、十年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、国利民福を向上させる点に於いて用意周到であった。運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等、旧朝鮮時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらした。にも拘らず朝鮮人の性情が偏狭、我執に傾いているためか、口では感謝しながら、心では淋しさを感じ朝鮮人の自尊心を傷つけるなどと思う者が多い。 更に朝鮮人は米国を自由郷、現世の楽園のように思っている者が多い。しかし、そこは白人の天国であって、有色人種の人権はほとんど認められない。パリ平和会議で、日本が人種差別撤廃を提唱したが、オーストラリアのヒュース首相が強硬に反対し、それを真っ先に支持したのは米国のウィルソン大統領でなかったか。米国の庇護に頼って光栄ある独立が達成できるなど不可能の事である。日本統治下の朝鮮人は米国に比べて遥かに幸福であることを認識し、穏当な方法によって民権を拡大してゆくことを講ずべきである』 (米国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義とは、第一次大戦時のドイツとその同盟国の支配下にあった東欧地域の諸民族独立を支援する地域限定のもので、日本とは無関係なものである) ◇金文輯(きんぶんしゅう) 「朝鮮民族の発展的解消論序説」より 『数千年にわたる過去の朝鮮史、ことに李朝500年史だけをとりあげてみても、完全な独立の道などは一場の夢にすぎないことはわが朝鮮自身の常識である。いわんや最近50年の国際情勢、とくに日ましに険悪の度を増すこれからの世界史相を展望するとき、朝鮮が微弱なままに一度自立してしてみようというのは、… 最初から問題にならないのである。してみると、いまわれわれに残された唯一の道は、肉体的にも精神的にも内地人(日本人)と同族になって、一切の義務と権利を享受しようという皇国臣民の道である』 |