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☆☆洪思翊日本軍中将☆☆
- 1 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/10/20(金) 23:39
- 洪思翊さんという朝鮮人の日本軍中将がいたそうですね。
それと、靖国神社の博物館に行きましたら、卓さんという特攻隊員が奉られていました。
旧日本軍への半島出身者の係わり方はどの様だったのでしょう。
彼らは敗戦で戦犯としてどのように扱われたのでしょうか。
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- 2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/20(金) 23:44
- 東京裁判で死刑になった日本軍のB,C級戦犯は1061人いるが、
そのうち朝鮮人は23人いる。もちろん1061人のなかに台湾人もいる。
洪思翊中将は。。。わからん。
- 3 名前: 名無しさんの声 投稿日: 2000/10/20(金) 23:51
- >>1
太平洋戦争当時日本軍として参加してた朝鮮人はすべて士官でした。
末期になって徴募兵として戦った人たちもいたようですが。
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朝
鮮
人
軍
人
と
創
氏
改
名
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- 5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 00:07
- >>3
これこれ、あやふやな知識で、もっともらくし断言してはいかんぞ。
昭和18年まで、外地には徴兵制度が適用されなんだから、実際に戦
地におった朝鮮人兵士は志願兵であったということで、全員が士官な
どということはないの。
徴兵制が敷かれたのち、朝鮮人が入営した当時の朝鮮軍は朝鮮南部に
駐屯しておったから、出征はしておらんし、戦闘にも参加しておらん
よ。ま、空襲などは受けただろうがな。
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- 6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 00:11
- 結局、姓を変えたのか、変えなかったのかどっちなんだ?
変えなかったという説が多いが、こう書いているところもあるし。
http://www.geocities.com/Tokyo/Towers/6057/fnetd12.html
(リンク先一部転載)
「洪思翊」中将は創氏改名をされなかったと考えておられるのでしょうか?
法規上は洪思翊中将も「創氏」を行ったことになっています。すなわち、
姓名が洪思翊であったのが、新たに創氏の法規(制令第19号)が
強制的に適用され、氏名が洪思翊になったと考えられます。
何が変わったのでしょうか?
クイズみたいな話になりますが、洪という「姓」がなくなり洪という「氏」が
強制的に創られました。実質は何も変わっていないようにみえます。
これは洪思翊中将が男性なので結果的には世間的な個人名は変わり
ませんでした。
しかし、既婚女性の場合は事情が違います。洪思翊中将の奥さんが仮に
いたとしてかつその人が韓国人であったら、本来の自分の姓、たとえば
「金」から法的に強制的に夫の氏の「洪」にさせられました。したがって
「創氏」は自発的であれ強制的であれ100%完全実施されました。 |
- 12 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/10/21(土) 00:25
>6さん うかつでした。洪の姓で中将であれば日本名になってないですね
不思議です。
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- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 00:30
- >>6
さてさて、鮮人のこねくり回した屁理屈に混乱しておるようぢゃの。
結論から言うとな、洪中将は姓を変えてなどおらんよ。
例の創氏改名が法による強制であったという鮮人どもの馬鹿げた形式
論理に騙されておるのぢゃ。
つまりの、洪思翊中将のように姓が「洪」で名が「思翊」であったの
に対して、創氏改名というのは新たにそれまで無かった氏を家単位で
創るようにという「創氏」と氏を日本風にした場合に名がつりあわな
いような場合のことを考慮して、名を変更してもよいということであ
ったのぢゃ。
で、この「創氏」は一率に実施された、形式的に言えば強制でな、改
名の方は変更してもよいが、その場合は手数料ぢゃった。
そして、一定期間内に新たな「氏」の届け出がなければ、姓をもって
氏とする制度であったのぢゃよ。
洪思翊中将のように、届け出を行わなかった場合は、姓(これは慣習
的なものとして存続したのぢゃ)は「洪」で氏も「洪」名が「思翊」
となったわけぢゃ。
ちなみに、届け出は強制ではないぞ。ただ、半島におった鮮人の8割
は日本風の氏を届け出たというのが歴史上の事実での、鮮人どもとし
ては、なにがなんでも強制ということにしておかねば、面目がたたん
のぢゃろうて、届け出なんだら、自動的に姓が氏になることをもって
強制ぢゃったと強弁しておるのぢゃ。
なんとも、おかしな理屈ぢゃの。
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- 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 00:30
- この人は日韓併合のちょい前に
韓国の武官学校に入学して併合後は陸大(エリートコースです)
に進み、昭和19年に中将に昇進。フィリピンに派遣されました。
もちろん韓国出身の「大日本帝国軍人」としてです。
で、なんとこの人のちに捕虜の処遇に関して軍事裁判にかけられ、
連合国側に戦犯として処刑されてしまうのです。
- 16 名前: 3 投稿日: 2000/10/21(土) 00:31
- なんでデタラメなのよ。
太平洋戦争末期まで朝鮮人の徴兵はなくて、太平洋戦争初期の軍隊にいた
朝鮮人は全て士官学校卒の士官だったってことだよ。
- 17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 00:32
- >7
「洪思翊中将の処刑」は文藝春秋、昭和61年刊です。
ちなみに山本七平ライブラリー(同じく文藝春秋)第8巻にも所収しています。
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- 19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 00:54
- >>16
さてさて、徴兵された者以外は、士官学校卒だと信じておるのか。
どこから説明すればよいのぢゃ。
そもそも、士官はすべて士官学校卒だとでも思っておるのかの。
志願兵制度についても知らんのかの。
困ったのう。
半島から軍に入るには、一つには士官学校を目指すことぢゃが、これ
は今でいえば甲子園に出場して東大野球部をめざすのと同じくらい大
変なことでの、鮮人の士官学校出はおったぢゃろうが、数は多くはな
いぞ。
また、大学や専門学校などから志願した者は、幹部候補生を経て、士
官となる途があったが、軍隊の中では幹候と士官学校出では大きな違
いがあったのぢゃ。
多くは、兵卒として志願したのぢゃが、これとても大変な難関での、
競争は激しかったのぢゃ。まして、航空兵などともなれば、すぐにも
下士官になれるエリートコースであったからの。
そうでない、一般の兵卒は捕虜収容所などに配置されての、正直なと
ころ、前線の戦闘部隊では鮮人の兵士は多くはなかったのぢゃ。
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- 20 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/10/21(土) 01:06
- ジジ様でしょう、何時も勉強させて頂いてます。
>捕虜収容所などに配置されての
テ事は下働きですか、戦後日本軍の捕虜の扱いは国際的に問題になりました。
そのトバッチリを半島出身兵士が受けた事にはなりませんか。
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- 22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 01:34
- >>20
>テ事は下働きですか
輜重兵を下働きというのは、ちと言い過ぎぢゃと思うがの。
たしかに、戦闘部隊の歩兵、砲兵などからは「輜重兵が兵隊ならば、蝶々
トンボも鳥のうち」などと揶揄されてはおったが。
兵站というのは、軍にとって大切な任務ではあるのぢゃ。
旧軍では、兵站を担当する部隊、兵士を輜重と呼んでの、捕虜収容所の運
営も輜重部隊の管轄ぢゃて。
そうそう、そもそも洪思翊中将はその輜重部隊の親玉ぢゃったで、戦犯に
指定されてしまったのぢゃ。これはある意味でとばっちりぢゃの。
ぢゃがの、鮮人兵士の多くが輜重部隊に配属されたには、訳があっての、
単に差別されていたというようなことではないのぢゃよ。
また、大きな声ではいえんが、旧軍の古兵や下士官、人によっては士官も
含めて、すぐにビンタを飛ばす暴力的な風潮があっての、もちろん個人差
はあるが、立派な帝国軍人たろうとする半島出身者は余計にその風潮が強
い傾向があったことも否定できんのぢゃ。
BC級戦犯に指定された兵や下士官は、監督責任ではなく、暴力行為や虐
待の実行行為を特定されて裁かれておるのぢゃよ。
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- 24 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/10/21(土) 01:47
- ジジ様の論陣は何時もウ〜ンと納得します。99%はそうであったろうと
私は納得します、本当です。
あえてジジ様に嫌われても突っ込みます、願わくは可愛い弟子だと思ってください。
>訳があっての←訳とはなんでしょう。
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- 25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 02:22
- >>24
>訳とはなんでしょう。
お若い方には、旧軍の仕組みについての知識は無いものと考えたほうが
よいぢゃろうの。
日本軍の戦闘部隊の根幹をなすのは、歩兵連隊、砲兵連隊なのぢゃ。新
兵が入営して、内務班で生活を共にし、訓練を受け、連隊旗のもとに命
令があれば全滅するまで戦うという、生死を共にする集団が形成された
のぢゃよ。
それが良いか悪いかなどというのは、戦後の価値判断での、戦前・戦中
は連隊の名誉のために命を懸ける兵士というのは当たり前の存在であっ
たのぢゃ。
そしてな、連隊というのは地域ごとに編成され、大阪8連隊、京都9連
隊というように、都市の名をかぶせて同郷の出身兵士によって構成され
ておっての、旧軍はこの原則を最後までくずそうとはせなんだ。
つまり、連隊は郷土の名誉も担っているという形で、それぞれその精強
さを競うようになっていたのぢゃ。この連隊を単位として旅団、師団な
どが編成されておった。
出身地の異なる少数の半島出身兵士には、航空兵などの特殊兵科を除け
ば、編入する先の連隊がなかったのぢゃ。このために、輜重部隊といっ
た後方部隊や補助部隊への配属が多くなったのぢゃよ。
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- 30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 04:50
- またも負けたか八連隊これでは勲章九連隊
- 34 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/10/21(土) 07:57
- >25 ジジさま、
朝鮮人兵士に銃を持たせると、反乱の恐れがあるから捕虜の監視をさせた、
などの声を聞くこともありますが、一応はそうではなかったわけですか。
特攻隊に朝鮮人隊員が居たのは、そういうことだったのですか。
- 35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/10/21(土) 08:17
- >またも負けたか八連隊これでは勲章九連隊
おおおぉっ!久しぶりに聞いた。親父が酔っぱらっていってた。
関係ないけど「のーてんふぁいる」ていうのもよく使ってたな。
中国語の「脳天壊了」。海軍でも使われていたんだろうか。
ぢぢ様、まさに蒙を開かせていただいております。
(独り言:それにしても生き字引だね。感服するわ。)
- 78 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/10/31(火) 22:30
- 日本軍は、ある意味多国籍軍の要素もあったように思います。
台湾の高砂族は優秀な日本軍兵士であったと聞きます。
インドは無抵抗主義のガンジーが世界的に有名ですが、
日本が軍事指導したチャンドラボースの軍もあったと聞きます。
このあたりの真実をジジ様にご指導をお願いします。
- 79 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/10/31(火) 22:36
- 朝鮮人の特攻隊員はどの位居たのでしょうか。
この事も知りたいです。
卓(光山)中尉しか靖国神社に奉られていませんが、
一人しか居なかったのでしょうか。
- 80 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/01(水) 20:22
- 私のおじさんは高射砲兵になるといって帝国陸軍に志願したそうですが、
内実は特攻隊員にまわされると言ったことが噂され、父によって逃がされ
たそうです。
当時そのように戦争に帝国臣民として協力するのはしょうがないと思いますが、
いまだに朝鮮、韓国人を見てチョンとか言っているのを聞くと、なんだか
差別って消えていないのねと思います、まぁいいけど、慣れっこですから。
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- 83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 21:08
- >>78
はての、なにが知りたいのぢゃな。
何度もいうとるが、わしはただの老いぼれぢゃよ。軍から見れば
一介の地方人ぢゃて、帝国陸海軍の内情など、当時ならば誰もが
常識として知っておったような、とおりいっべんのことしか知ら
んのぢゃ。
ま、当時は誰もが知っておったことでも、戦後になってからは、
あれもこれもなかったことになっておる話は、たしかにあるでの、
そんな話でもすればよいのかの。
ただの、最初に言うておくが、大日本帝国はとことこんまで負け
たのじゃよ。これだけは忘れてはならぬぞ。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということわざを知らんかの。
しょせん、戦争に正義などありはせんよ。いまさら、あれは正義
の戦いであったなどと主張しても、それは負け犬の遠吠えという
ものぢゃ。
さて、たしか、昭和18年も終わり頃に東京で大東亜会議という
のが開かれたと記憶しておるの。
チャンドラ・ボースのインド独立亡命政府も参加しておったな。
ほかには、南京政府の汪兆銘や満州国の代表、フィリピンやタイ
それからビルマの代表も参加しておったかの。
日本軍に投降したインド独立派の兵士は、ボースに指導されて、
インド国民軍というのを作って戦闘に参加したはづぢゃ。
- 84 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/11/01(水) 21:10
- しかしの、お若い方には理解しにくいかもしれんが、戦前に亜細
亜の独立国といえば、日本のほかにはあまり実のある独立国はな
かったのぢゃよ。
タイが戦前からの独立国であったが、列強の力関係の中で綱渡り
のように名目的な独立を保っていたにすぎんでの。
支那とて、租界やらなにやらで半植民地状態であったのぢゃ。
それに、支那の国民党軍はそれなりの戦力を持っておったが、日
本と協調して南京政府をつくった汪兆銘は、結局、国民党軍の協
力を取り付ける事ができなんだでの。
ぢゃから、日本人は前の大戦、当時は大東亜戦争と呼んでおった
が、これが、追い詰められて起こした戦争とはいえ、白人支配の
世の中を変える戦争であるとは、認識しておったが、亜細亜の同
盟軍といっても、傾きかけた戦局に影響のあるような戦力を持っ
た独立国があったわけではないぢゃ。
みな、亜細亜の諸民族の連帯だのという建て前や精神面はともか
く、実際の戦力として、あてにしてはおらなんだよ。
それとな、台湾の熟蛮の兵士ぢゃが、これは同盟軍などではなく、
帝国陸軍、日本軍の兵士ぢゃよ。
たしか、台北と台南に現地人の歩兵連隊があったはづぢゃ。
(熟蛮=じゅくばん=台湾総督府の施政方針に順応した原住民のこと) |
もともとは、通常の歩兵連隊とは別枠の治安維持用の連隊で、台
湾歩兵と呼ばれておったが、先の大戦では南方に出征したぢゃろ。
- 85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 21:11
- >>79
残念ぢゃが、それについては知らんの。
そのお方のことも知らんが、そもそも航空兵を志願するような半
島出身者であれば、日本風の氏名を名乗っておったことぢゃろう
し、当時の日本風の氏名は通称ではなく本名ぢゃでな、区別はつ
かんよ。
話題になったのは、戦後も親日派が糾弾されるような時代になっ
てから親族(親御さんやご兄弟ではなかったの)に遺品を引き渡
す段になって、韓国政府が介入して拒否した例があるくらいぢゃ
の。
両親が存命であれば、戦時中か戦後まもなくにそっと引き取った
であろうから、表に出ることもなかったろうて。
- 86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 21:13
- >>80
まったくもって、けしからんことぢゃの。
ぢぢが謝って気の済むことであれば、幾重にも謝ろう。
まことに、あいすまぬことぢゃ。
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- 90 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2000/11/01(水) 21:49
- >1です じじ様再びお会いできて嬉しく思います。
あの当時南方の島々まで、戦線を広げるメリットがなにかあったのでしょうか。
今なら岩礁一つでも領土であるなら、200海里の水域の利権はありますが
南方のジャングルの島々が日本の資源確保にはならないように思います。
北方のアリュウシャン諸島なら漁業資源がありそうですが・・・・・・
私の義父は、海軍でしたが乗る軍艦もなくなり陸戦隊に配属され、ニュウギニアで
それは大変な飢餓状態の負け戦で、とても此処では書けない○○まで食べたそうです。
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- 93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。投稿日: 2000/11/01(水) 22:05
- >>90
ふぉ、ふぉ、ふぉ。
まことに礼儀正しいお人ぢゃの。
ぢゃが、そんなに堅苦しくなることもあるまいて。
>あの当時南方の島々まで、戦線を広げるメリットがなにかあったのでしょうか。
はて、ABCD包囲陣というのをご存知ないか。
日本が戦争にまで追い詰められたのは、石油の禁輸によるのぢゃ。
石油が欲しかったのぢゃよ。
それと、ゴムやポーキサイトの戦略物資を押さえたのぢゃ。
当時、日本本土や台湾、朝鮮、南洋諸島、日本が勢力圏としていた
満州や支那では石油が採れなかったのぢゃ。
満州で石油が発見されたのは、戦後もずいぶんと経ってからのこと
ぢゃでの。
>私の義父は、海軍でしたが乗る軍艦もなくなり陸戦隊に配属され、ニュウギニア
なんとなんと、大変な目におうたことぢゃろうて。
いやいや、ご苦労様なことぢゃ。しかし、生きて復員されたのであれば
不幸中の幸いということぢゃの。
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